時和草庵

自称・古楽の楽しみ方研究家で朗読愛好家の雑記日記とお知らせ。

「耳が帰ってきた」お話。

正確な時期は覚えておらず思い出すことが出来ないのだけれど。

二年ぐらい前になるのだろうか。

「耳」が閉じてしまったかのような、不思議な閉塞感に包まれる日々が始まった。

それは、耳や脳の病気であるとか、身体のどこかに異変が起きたという類いのものではなくて。

どちらかといえば、「何も聞きたくない。何の音も耳の奥には入れたくない。」という拒絶に近い感覚。

聴力に問題はなく、好きな音楽を聴けばそれなりに喜びも楽しみも感じられる。

しかし、それまでの生活・人生の中では、耳にした音楽や人の声に、頭の奥の何かが反応して、色々な景色をふわふわと思い描くことができたのに、それができなくなってしまった。

正直なところ、これが結構キツくて。

私は、想像力 いや、妄想力を人生のメインエンジンとして生きてきたような奴なのに。

エンジンに点火しなくなってしまった。

 

耳にした音からインスピレーションを得られないから、何のアイデアも浮かばないし、暮らしの半分ぐらいが楽しくない。

一応、生きてる、働けているから大丈夫、ぐらいのフラットな感覚。

元気ではあったのだ、一応、ね。

幸いなるかな「生きるぞ!」という気持ちは相変わらず強く、生命力の部分には何ら問題なかったと思われる。

この性質とDNAは間違いなく亡き母から受け継いだものだろうなぁと感じ入りながらも、乾いた笑いで一人自嘲したりして。

さて、これからの人生をどうしたもんだろうか?と少し思い詰めた瞬間もあった気がする。

それでも絶望感のようなものが無かったことは幸いだったかもしれない。

 

それまで体験したことのない、フラット過ぎて音から何も感じられない自分をひとまず受け止める・受け入れるしかなかった。

それも私自身なのだから、自分で自分をイジメたり否定したりしない。

過去の自分と今の自分を比較して悲観しない。とにかく、とにかく、あるがままを愛そうと。

そしてそう思えるようになった頃、

「風は再び吹くから、今はその帆を下ろして待ってみよう」

との思いも湧いて、とにかく、何事においても無理をしないことにした。

 

迷惑もかけただろう。

でも、誰かがかけた迷惑が、他の誰かを成長させることだってあるのだからと、都合のいいように解釈させてもらって自分を責めないでおいた。

そんな中、「コロナ」が日本中で、世界中で猛威を振るい、一年以上経った今も収束にはほど遠い状況で、私自身も色々考えさせられることがあって。

命のことを考えない日がない、重苦しさのある日々の繰り返しなわけだけれど

なんだかもう、とにかく淡々と前向きに、「頑張る」だとか「辛抱する」だとか「根性だ!」とか考えずに、とにかく無理しないことだけを心がけて暮らしていたら。

長い、長い、凪の日々が終わっていたことに気づいた。

 

音が、声が、耳の奥まで届く。

それらはいずれも柔らかくよく膨らんで、鼓膜に当って弾けて四方八方に飛んでいく。

花になり風になり数多の色を描き出し。

愉快。そう、私の耳はこうだったと。 

よく帰ってきてくれたね、私の耳。

我が舟に再び帆をはろう。